凸凹グルメ散歩

新潟市は、なぜフルーツパラダイス?② 凸凹が育むテイスティーな果物たち

 地形ファンの皆さんにおすすめするニューレジャー企画、「凸凹グルメ散歩」第2弾。新潟の樹本住民にして観光情報の(元)プロフェッショナルである私、五十郎が新潟市フルーツパラダイスを探求する、続編である。

※追記 こちらにドローンで撮影した分かりやすい動画をアップ。参考にどうぞ。

 下の写真は、新潟市アグリパークの直売所「にいがた村」で買ったふぞろいの林檎たち、月潟エリア産の小さめサイズ11個ほどで500円である。規格外ゆえの値段だが、味は一緒なので超お得。フルーツパラダイスならではの恩恵だ。誠にありがたいですね。

いとしのエリーを脳内BGMに、コンポートにして子供らのお弁当用に作り置き。
スイーツも余裕でホームメイドしちゃうもんね。

果物も野菜もお買い得でおすすめの、新潟市アグリパークはこちら。

新潟市アグリパーク 新潟市南区東笠巻新田

 そんなフルーツ王国・新潟の成り立ちを探ってみると、

↓このような地形ゆえに…

第一弾を見てね。

↓このようにtastyな果物が育まれるようになっていった…

というお話である。

 大地の成り立ち、人々の歴史に触れながらご当地グルメをダイナミックに味わおうというのが、私が提唱する「凸凹グルメ散歩」の楽しみ、醍醐味。新潟のナシ栽培を軸に、フルーツ王国誕生の経緯を探る。

新潟市の地形の生い立ち

 新潟市が位置する越後平野の大地は、つい最近まで海だった。

 越後山脈、フォッサマグナ、飛騨山脈に囲まれた「湾」だった越後平野が、現在のような大地を形作ったのは、7千から5千年前にかけてのこと。信濃川と阿賀野川が運んだ土砂が、時間をかけて平野を作った。

 また、それ以前の氷期には世界の海水面が約100メートル下がっていたため、越後平野は陸地で河原だった時代も。つまり、 土砂の堆積、平野の沈降、海面の上昇や下降で、扇状地、三角州、海岸低地、海岸砂丘 などの地形を作ってきたのだ。(参考/新潟市 潟のデジタル博物館

 この画像は、現在の越後平野の高低差を色付けした地図。

国土地理院・地理院地図「デジタル標高地形図 新潟県_2019年6月作成 」に文字を乗せた。

 ぱっと見、真ったいらの平野に見える越後平野。だが、ビミョーに高低差があるのが、地形マニアにはたまらないポイント。

新潟市の高低差が分かりやすい。国土地理院・地理院地図「デジタル標高地形図 新潟_2011年3月作成 」に文字を乗せた。水色は標高-1メートル未満の場所。砂丘列の微高地にも注目。
土砂が越後平野と新潟の砂丘を作った。

水害とナシ、ご先祖様たちの挑戦

  越後平野で住み暮らしたご先祖様たちは、大河・信濃川と阿賀野川の氾濫がもたらす水害との、戦いの連続だった。

江戸時代

 信濃川下流河川事務所のHPによると、「信濃川は昔から大変洪水の多い川で、江戸時代の大洪水だけでも86回記録されていて中小規模の洪水となると数え切れないほど発生」していたとか。まだ今のような治水設備がなかった頃のこと。

 また、上の画像でもお分かりの通り、阿賀野川もなかなかの大河。大雨ともなれば、双頭の大蛇が暴れまくる大地が、現在の新潟市だったわけである。

 しかし新潟のナシは、そんな水害の地だったからこそ誕生した。

 徳川四代将軍・家綱の頃(1651~1680年)、小阿賀野川の決壊で埋まった耕地にナシの木を植えたところ、結実が良かったため近隣に広がっていったのが、新潟のナシ栽培の始まりらしい(参考/新潟市HP 日本なし「新興(しんこう)」)。場所は、現在の新潟市江南区二本木のあたりらしい。

現在の地形から想像すると…

越後平野を拡大すると…↓
( 国土地理院・地理院地図「デジタル標高地形図 新潟_2011年3月作成 」に文字を乗せた。)
新潟の梨栽培発祥地と思われる二本木。いかにも決壊しそうな川の蛇行ぶり。低湿地ゆえの定めか…。かつての川すじも、クッキリ見える。

 時代は下る。江戸時代後期の文化年間(1804-1817年)に植えられたという、「月潟の類産なし」と呼ばれているナシに注目。

 上総国(現在の千葉県)から「類産」という種のナシの原木を移入したところから 、月潟エリアのナシ栽培が始まったという。

 現存する原木は国の天然記念物指定。2018年に私が訪れた際は、まだ実を付けていた。長い間、誠にご苦労様である。

2018年に撮影した「月潟の類産ナシ」。
「月潟の類産ナシ」の果実。元気に実を付けていいた。

場所はここ。すぐ近くに、ルレクチエ発祥の地がある。

明治時代

 明治29年(1896)の横田切れは、今も語り継がれる大洪水。

 現在の燕市横田の信濃川堤防が大雨で切れ、 越後平野が泥の海と化した大災害。 衛生状態の悪化による伝染病のほか、死者も出した。(参考/大河津資料館HP 横田切れ

 この水害がきっかけで、以前から要望が高かった大河津分水路建設工事が、明治42年(1909)に始まる。通水は大正11年(1922)、始動は昭和6年(1931)という大工事。

地理院地図HPの3D機能で陰影を付けて作図した、今の越後平野。なかなかの平らっぷり。横田切れは刈谷田川との合流地点。大河津分水路のおかげで現在の信濃川の川幅は縮小している。ヨリで見てみると…↓
すごい蛇行ぶり。わずかな高低差を激しくのたうっている。 各地で大蛇伝説が語り継がれるワケだ。

 ル レクチエの始まりは、明治36年ころ。

 西洋なしがロシア人の間で高値で取引されているのを知った白根(今の新潟市南区)の農家・小池左右吉氏が、フランスから苗木を持ち込んだ。が、栽培が難しいため安定生産できなかったようだ。 (参考/JA全農新潟HP

 災害にめげず、果敢にフルーツビジネスに挑んだ様子がうかがえる。

 明治時代のロシアと新潟といえば、サケ・マス・ニシンなどの北洋漁業。当時は日本の一大産業だったが、 農家・小池左右吉氏 とロシア人との接点を探ると面白そうだなぁ。これは気になるぞ。

大正時代

 一方で、洪水も頻発。大正2年(1913)の木津切れ大正6年の曽川切れなど、枚挙にいとまがない。

大正6年、曽川切れの記録写真。(新潟市歴史博物館みなとぴあ所蔵)

 先の大河津分水路の通水は大正11年(1922)、稼働の開始は昭和6年(1931)だ。

 大河津分水路の建設ストーリーは、かつての人気テレビ番組「プロジェクトX」さながらの熱いドラマがあるのだが、それはまた、別の機会に。ひとつ覚えておきたいのは、分水路のおかげで新潟市はかなり水害を回避できているということ。先日の台風19号でも、日本最長河川の河口部にも関わらず、新潟市は大きな水害はなかった。

現在の大河津分水路可動堰。なにやらガンダムみたいなルックス。
地理院地図と合わせると場所はココ。大河津分水路のおかげで信濃川が細くなっているのがよく分かる。

昭和時代

 昭和に入るとさらに分水施設や排水機場などの施設を増強。大洪水などの水害は減少してゆく。

  昭和58年以降、ルレクチエが安定栽培に成功し、商品として地位を確立。贈答品などのブランドフルーツとしてその名を馳せるようになる。

平成~令和の時代、いま

 水害の多さゆえナシ栽培が盛んになり、現在は信濃川、阿賀野川、およびその支流周辺では果樹園が多数存在している。平成8年にイチゴの新潟県産ブランド「越後姫」が誕生し、果実狩り体験や直売を行う観光果樹園が増えてゆく。

 ナシ、イチゴ、ブドウなどなど、それぞれの旬の時期には果物目当ての奥のレジャー客でにぎわうフルーツ王国、新潟市。いや、新潟市だけでなく三条市、加茂市などにもありますよー。ぜひ、季節のフルーツを味わって新潟の凸凹グルメ散歩をお楽しみいただけると幸いです。

1月、信濃川沿いのナシ畑。越後平野の川沿いでは、このような風景があちこちで見られる。
新潟県の品種「天の川」を遺伝子に持つ「新高(にいたか)」。
新高を持つ私。デカイ。

果物狩りおすすめリスト

 いちご狩り、なし狩りなどを楽しめる、新潟市内の観光果樹園をピックアップする。市内に多数あるので、ぜひお楽しみを。

白根グレープガーデン 新潟市でイチゴ狩りと言えば、まず最初に挙げられる人気スポット。果物の種類が豊富で、一年中楽しめるのが魅力。イチゴ狩り、ブドウ狩り、ナシ狩りなどなど、春夏秋冬いつでもウエルカム。新潟の市街地からも近めで、我が家も複数回利用したおすすめスポット。出産後の嫁の見舞いに、ここで獲ったブドウを持って行ったのは、よき思い出である。  ファミリーやカップルだけでなく、町内会や老人ホームなどの客も多く見かけるのは、規模の大きさ、駐車場や売店などの利用のしやすさの証だろう。

中村観光果樹園 ルレクチエ狩りを実施している珍しい果樹園。なし狩り、ブドウ狩り、バーべキューも可能。

池田観光果樹園 イチゴ狩り、ブドウ狩り、梨狩りができる。食堂、喫茶コーナーあり。こちらもバーベキューOKだ。

他にも観光果樹園は多数ある。ぜひフルーツ王国新潟を存分に楽しんでほしい。