50代で会社を辞めた
27年間、勤めた会社を辞めた。50歳代前半。新型コロナが蔓延する前年の、いまから4年前。生まれ育った郷里から、そして持ち家である我が家から離れ、家族からも離れ、転職して関西に移り住んだ。
普通の人は、あまり選択しない道だと思う。でも、普通ってなんだ? 人生のこと、仕事や社会、家族のことなど、思うところを記してゆく。
なぜ辞めた?
長年勤めた会社は地方の出版社で、タウン情報誌の発行がメイン事業。インターネットとSNSの普及で、有名な全国誌もどんどん休刊(つまり廃刊)してゆく昨今。その会社の雑誌もご多分に漏れず、みるみる販売部数が落ち込んでいった。情報はタダで手に入る時代、有料の雑誌媒体はその役割は終えたと痛感する日々。懸命に作っても、手にとって読んでくれる人が減ってゆく状況は、辛かった。売れない、つまりほとんど求められていない商品を作り続けることに意味が感じられなくなり、会社を辞めた。
多くの人は、それでも定年までガマンして会社に居続け、安定した収入を得る道を選ぶのかもしれない。が、私は生来、人と同じように生きること、普通の人生にあまり興味がない人間で、周囲からも奇異の目で見られることが多く、そうした性分であることも自覚もしている。惰性のような仕事を続けるより、新しい別の仕事をしたい。50代前半だったが、今までとは違う生き方にチャレンジしたいと考えた。現役も終わりかけの50代、何ができるのか冒険したいとも。
なぜ関西に?人生の3つのテーマ
残りの人生で、何かしらの貢献をしたいと考えている三つのテーマ。
1. いずれやってくる食糧危機
2.子供たちの明るい未来
3.気候変動、環境問題
大それたテーマを掲げても、一介の小市民にできることなど知れている。そう分かっていても、それでも何かやるべきだ、そして、小さな力であっても何もしないよりはマシだ、とも。今でもそう考えている。
そういえば、転職後の後の話だが、大阪で一時期勤めたアルバイト先の社長が言っていた。温暖化問題へのデモのニュースを見て「あれ、何の意味もないですよね。何か変わるんですか」と。バタフライエフェクトの話を伝えたが、理解してもらえず。一方で、「感じよく見えるから」という理由でSDGsを会社のHPに掲げていた。全く共感できない社長だったが、何もしないよりSDGsを掲載するだけ、まだマシだ。また、いつか社長のニセの心は本物になるかもしれない、とも思う。
さて、転職するなら、1の食糧に関わる仕事が、農業に関わる仕事がいいのではないか。新規就農は収入面で厳しすぎることを、専業農家の友人から聞いていた。彼の農作業をちょくちょく手伝いに行き、その暮らしぶり、歩んできた道を知っていた。彼の言葉は重みがあった。農業の近くの仕事にチャレンジしたいと探していたら、大阪の農機具メーカーで内定が出た。チャンスと思い、単身で大阪に移住することにした。
同じタイミングで二人目の子である息子の、関西の大学への入学が決まったことも、大きかった。一人目の子が既に東京の大学に進学しており、家族が離れ離れになって行くことが寂しかったのである。『子離れ』って、そう簡単にはできないな、と強く思う。寂しさと付き合うには、食べて、寝て、仕事して、といったルーティンのなかで徐々に折り合いをつけてゆくのが解決法なのだろう。が、その時期は会社を辞めたことでルーティンを失い、リズムを作れずにいた。やがて毎日、市民体育館に通い、筋トレとランニングをするようになった。ルーティンを作り、運動で気持ちを前向きに持っていきたかったのだ。筋トレとランニングは、今でも続けている。
子供たち、豊かな時間
「朝に死に、夕べに生まるるならい、ただ水のあわにぞ似たりける」 鴨長明は方丈記でそう記した。
『時間』って何だろう? 楽しかった家族の時間は既にいまはなく、それぞれの思い出のなかにあるのみ。確実に存在したはずの『あの時』は、どこへ行ってしまうのだろう?
子供たちが小さかった、幼稚園から小学校低学年のころ。毎週末、一緒に公園や科学館、図書館などに遊びに行くのが最大の楽しみであり、喜びだった。
子供たちと過ごす時間を愛した。どこでなにをするかを問わず。
当時、勤務先の出版社で、家族向けのレジャーガイド本の企画編集を担当していた。子供が喜ぶことの見つけるのが、情報発信の仕事にも役立った。プライベートの仕事の喜びが、直接結びついていた。振り返ってみると、生活と仕事が垣根なく「楽しさと喜び」で繋がっていたあの頃は、幸せでとても豊かな日々だった。そして思う。そんな生活と仕事の充実感は、私だけの特別なことだったのか?
仕事の喜びとは?
テクノロジーが中心にある近頃の「仕事」では、人間ならではの知恵や発見、工夫が価値を失いつつあり、働く面白みも少なくなっているように思う。メンタルの不調を感じる人が増えているのは、そんなこともあると思う。 かく言う自分も、例外ではない。仕事に喜びを大きな見出せなくなっていると、ここ数年、強く感じる。それは社会の変化のせいなのか、50代も終わりかけの年齢のせいなのか?
ほんの15年ほど前の日々。とても幸せな日々だったと思う。しかし、過ぎ去った時は戻らない。どんな金持ちや権力者であっても、『時間』の流れはコントロールできない。コントロールできないことを考えたり、悩んだりしたところでどうにもならない。分かっていても、思わずにいられない。じゃ、どうしようか。
過ぎ去った時は思い出として存分に大切にする。忘れる必要なんかない。そしてコントロールできる「何か」を見つけ、幸せを目指すべきである、と近ごろ思う。じゃあ、「何か」って、何だろう?
それはきっと、自分で楽しいと思えること。喜びを感じることや、得意なこと、誇りに思えること。人の目や評価を気にすることは全くない。ただ、自分の人生を、最小限でも家族の人生を、大切にできること。
そうしたことを探し、考え、追い求めるのは、60歳目前の今からでも、いや、いつからであっても十分可能なはずである。さて、何から始めようか。
転職のその後、そして「食と農」について
関西で移住し勤めた最初の会社は、完全にミスマッチだった。20年前の受注管理システムを刷新できない低いリテラシー、無免許状態で運転していた社員がみつかるなどの雑な社風、赤字を親会社に補填してもらい続けているにも関わらず黒字安定をうたう経営実態のウソ。荷物をまとめるが吉と、半年で退職した。
短期間で転職をすることを、多くの企業ではよく受け取らない。が、労働者は資本家、経営者のように土地や職業に縛られることなく、自分の労働力提供のマッチングに応じて移動できる自由を有している。この自由は、労働者であることのメリット。終身雇用は過去のものとなった昨今。経済は縮小し、若手人口は確実に減ってゆくのは、すでに分かっていることだ。それでも、人手不足と言っている企業は、若者を雇いたがる。多くの若者は3年ほどで転職し会社を去るのに。ピークを超えた、「第一線」での活躍を終えた中年以上の働き手を、ジョブ型雇用で採用し人材流動性を高めた方が、より面白い世の中になると思うのだが。
さて郷里にもどろうかと迷ったが、食い倒れの町にいるのだし、もう少し『食糧テーマ』に挑んでおこうと、とどまった。日本第二の首都・大阪、そして関西なら職もあるだろうとも考えた。楽天家なのである。農業の現場も知っておこうと、農家のアルバイトを探し、ねぎ農家の現場で働いた。半年ほどで他の職を得たため去ることとなったが、暮らしの根幹を、人々の生命の基礎を支えるはずの『農業』は、産業としてつくづく弱く、厳しい。明るい未来を描きづらい現実を、リアルに実感した。また、スーパーに並んだ時の見栄えのために、どれだけ多くの「食べられる部分」を廃棄しているかも。なんとなく自然に近いのどかなイメージを抱きがちな農業だが、資本主義システムの一部だ。利益、労働生産性を追求し、たくさん作り、たくさん捨てる。それでも日本の食料自給率は40%以下、年々、低下しているという矛盾。世界的には、大量生産のために環境破壊を続けているという矛盾。その農家のおっちゃん(社長)とは、よく話した。今でも毎年、名産の淀大根を送ってくれる。そして私は、「農」を生活に取り入れるべく、市民農園を借りたり、庭で畑作りが可能な賃貸住宅に引っ越したりと、小さなチャレンジを続けている。
コネ・人脈なしの50代の転職は、かなり厳しかったこと
関西に引っ越して、転職先を退社した後、アルバイトで二か所を経験。ひとつは、高齢化産業の筆頭であり50代は若手の部類の「農業」。二つ目は、リサイクルショップでウエブの更新業務。さらに派遣社員として1社を経験した。現在は大阪の一般企業で正社員勤務。「子供たちの未来」に貢献する会社だ。
コネも人脈もゼロ、履歴書のプロフィールを頼みにした異郷の地での再就職は、50代ではかなり厳しかった。40から50社近くは、応募書類を送ったと思う。不採用の連続、落ちまくった。コロナ禍でなかったらどうなのだろう?変わらなかっただろうか?
採用する側から見れば、50歳代なので先が短い、雑誌編集の経験よりもweb広報やデザイン経験が欲しい、独りで関西暮らしはちょっと怪しい、など不採用の理由が確かに多い。コネや人脈は、確かに有効なのかも。郷里であれば、職歴にある勤務先のブランド力も評価されるかもしれない。そこがゼロベースとなると、喫緊の人手不足にある会社、27年間同じ会社に勤めた人間性を評価する企業か。キャリアや職能の評価ではない採用理由となると、そこは大丈夫な会社なのか、疑うようになる。こちらも、口コミで評判の悪い企業は避けたいところ。正社員契約を結ぶ会社に出会うまで、1年近くかかった。定年の60歳まであと1年ちょっと。サラリーマン人生も、先が見えてしまっている。
これからを、どう生きるか。行き過ぎた資本主義と距離を置きたい。
サラリーマンの7割は「自分の仕事は必要ない」「なくても会社は回る」あるいは「なくてもいい会社」と感じている。そんなアンケート結果があると、何かの本で読んだ。経済のため、利益、賃金のために不要な仕事を作り出し、同時に環境を破壊し、心の病をふやしているのだとしたら、どうだろう。資本主義の限界をつくづく感じる。人間は、もっと賢い選択ができるはずだ。
私は今、まさに「必要ない仕事」に従事している。自分でそう感じているし、上司も腹を割って話すと、そう思っているようだ。現代ならではの情報サービス、隙き間ビジネスで築き上げた会社。いや、その会社にお金を払ってくれる企業があるのだから、社会に貢献しているし必要とされているのだ、という考え方ももちろんアリだ。実際、取引先から高い評価を得ることもある。このまま定年まで会社に居続けることも可能だ。だがそれよりも、関西で第一次、二次、三次産業を体験し、コロナ禍を過ごしてきた中で、行き過ぎた資本主義を考え直す必要性を強く感じてしまっている。地方への企業移転、テレワーク、時差出勤。コロナで強制的に早送りで進んだかに見えた社会の変化。だがなぜか今、逆戻りしている。朝の通勤は元通りギュウギュウの満員電車。遠くから見る御堂筋のオフィスビル群は、夜は綺麗な夜景だが、朝はサラリーマンの墓場のように見える。そんなふうに見えてしまう自分は、実はけっこう病んでいるのではないかと思う。社会が変わらないなら、個人レベルで変わるべきか。
社会生活を維持するために、また我が子のために、お金はまだ必要ではある。が、お金にしばられることなく、必要性のあるコトやモノのために暮らしたい。行き過ぎた資本主義とは一歩距離を置いた、よりシンプルでプリミティブな、人間らしい生活をたぐり寄せたい。
経済学者の森永卓郎は、トカイナカで半農半X暮らしをしている。トカイナカとは、都会にそこそこ近い田舎という意味。畑をしながら都会の仕事も、というライフスタイルだ。また、俳優の松山ケンイチ・小雪夫妻の、田舎移住で半自給自足しながら俳優業も、という例も。
輸入に頼る日本の食糧は世界情勢に大きく左右されてしまうことを、コロナ禍やロシア・ウクライナ戦争などで私たちは痛感している。一方で、農家は高齢化が進み、後継がいないため廃業者が増え、耕作放棄地も増えているという現実。自分の畑がある生活を手に入れたいと、いま、考えている。具体的にどう動くか、懸命に、いや思い詰めるのはよろしくないので、リラックスを心がけながら真面目に、考えている。