関西に住んでから、いつか行こうと思っていた道頓堀の松竹座。庶民からすると入場料が高いため、なかなかハードルが高かったのだ。一番安い3階席で4000円。イオンシネマだったらミニオンカードで4本映画観れちゃうもんね。
特に歌舞伎ファンでもないのだが、道頓堀の芸能の歴史を伝える、伝統ある建物。一度は、観劇を体験しておかねばなるまい。念願の場所で歌舞伎を鑑賞した。
演目は、「源平布引滝」の三幕、「義賢最期」「竹生島遊覧」「実盛物語」。片岡愛之助が出演していた。
歌舞伎はちっとも詳しくない、無知なのだが、十分楽しめた。洗練された役者の表情、動き、衣装の色使い、檜の舞台、舞台装置などなど、「様式美」の素晴らしさを堪能できた。
そう、「美」に触れる心豊かな体験を得たくて、足を運んだのだ。
NHK「にほんごであそぼ」で知られる斉藤孝の著書「50歳からの孤独入門」を図書館で借りて読んだ。個人の収入や預金などの格差に触れるなかで、「経済至上主義的な価値観を無化してくれるのが、美の世界」としている。
資本主義社会では、経営者と雇用される側の労働者に分けて考えた場合、労働者は一生懸命がんばっても劇的に金持ちになることはできない。お金に最大の価値を置こうとすると、労働者には得られる収入の限界があり、さまざまな無理が生じる。
対して、「美」がもたらす豊かさについて考えてみたらどうだろう。
世の中、さまざまな美しいものがある。美しいものを楽しむことに、お金の有無は大きな問題にならない。ひとそれぞれの価値観で、「美」とは何かを定義し、楽しむことを「50歳からの孤独入門」は薦めている。全くその通りだと思う。経済学者の森永卓郎も何かの著書で、やはり、ビンボーでも老後を楽しめるとして、アートの重要性を書いていた。森永さん、癌と闘病中だけど頑張ってほしい。
若い頃は、とかく刺激的なものに目を向けがちで見過ごしていたさまざまなものが、経験、年齢を重ね、老いや死を意識するようになると、違った見え方がするようになる。私はここ数年、路傍の植物に心惹かれているのだが、「雑草」と呼ばれる彼らの姿に美しさを感じているからだ。
たとえば、クローバーとよく間違われる、ハート型の葉っぱのカタバミ。多くの人が見向きもしない、小さくかわいい黄色い花を咲かせるこの植物は、夜になるとそっと葉を閉じてお休みモードに入る。おひさまのない夜は光合成ができないため、省エネモードで翌日の生命活動に備えている。大輪の花を咲かせて人々の目を惹きつけるわけでもない、そんな姿に、どこか質素な美しさを感じる。
「50歳からの孤独入門」では、良寛についても触れていた。俳句を楽しむのにお金はちっとも要らない。
良寛が詠んだとされる句の数々は、本当に心に染みる。
うらを見せおもてを見せて散るもみじ
盗人に取り残されし窓の月
こうした句に触れて感嘆するのは、私自身、裕福だったことがまるでなかったからだろうか。まあ、お金はあった方がいいのだけど、お金よりも心が豊かである方が人生楽しめる、と考えてしまう性質なので。
良寛といえば、「書」も素晴らしい。悪く言えばミミズがのたくったような字なのだが、素人目でもただならない美しさを感じてしまう、独特の書で、書道家の先生のような見るからに立派ものとは違う、親しみやすさに溢れている。ヘタウマ文字で、なんとなく、自分でも書けそうな気になるのがミソ。思わず、筆やら墨やらを手に取ってみたくなる。気軽にひとりでも始められる書は、老後の楽しみにいいかもしれない。
紙や墨はなんならなくても、書は楽しめる。砂浜に枝で書いてもよし、空に向かって指で書いてもよし。良寛がそうした(と、伝わっている)ように。